第38回 仲間の作品コンクール 川柳の部

<高鶴 礼子 選>

金賞雨が降る 傘にすがってます 心山田 キミ子さん(調布支部)

 降りくる雨を前にして、ここに描かれたひとの心が漏らす《ああ……》。それが、切ないまでに沁みてくるところに、この句の味わいがあります。「雨」と「傘」という縁語仕立ての二語を主材として据えた上で差し出される《ここに描かれたひと》の心の現在地。それが、「傘」に「すがる」という、上質の取り合わせとともに示されているところが眼目であると言えましょう。加えて、「すがる」という動詞を「すがってます」と、口語口調の現在進行形にして記しておられるところが手柄です。それによって、《ここに描かれたひと》の心が抱える切迫した《懸命》が、アクチュアリティーたっぷりのかたちで読者の元へと届けられることとなりました。更に。中・下にかけての句跨りが、句想と相俟って、言い難いほどの余情を醸し出してくれていることにお気づきいただけるでしょうか。それによって、「雨」そして「傘」という二つの材が、「雨」は「雨」であって「雨」にあらず、「傘」は「傘」であって「傘」にあらず、という、字義を超えてふくらむ修辞となり得、物語が起ち上がりくることとなりました。眼前の「雨」を見つめる《ここに描かれたひと》のまなざし。それが語りくるものに、じっと耳を傾けていたくなります。

銀賞手にあかぎれ それでもやるよ お父さん横山 秀夫さん(調布支部)

 冒頭に置かれた「手にあかぎれ」という具象がたまらなく効いています。「手」に生じた「あかぎれ」によって、《ここに描かれたひと》が負わなければならなくなってしまった痛み。ヒリヒリと沁みくるその辛さを全身に刻みながらも、《ここに描かれたひと》は、やわらかな自然体の裡に、こう、つぶやくのです。「それでもやるよ お父さん」、僕は、と――。何をやるのか、何ゆえにやろうとするのか、やり続けねばならぬのか、といったセツメイを、一切、排した上で果たされる確かな意思表示。その、静かな力強さに、《ここに描かれたひと》のお人となりや、ここに至るまでの生き様、お父君なるひととともに過ごされた歳月、そして刻んでこられた「父と子」という関わりの相が沁み来ます。普段着の言葉が語り尽くしてくれる父と子の刹那。じんと、ふくらむ一句となりました。

銅賞お袋が好きな花です 供えます川田 健三さん(調布支部)

 淡々と綴られた、力むことのない、やわらかな言葉が、とてつもない《やさしさ》と《あたたかさ》を伝え来てくれています。「お袋が好きな花です」と、あたかも、単なる母君の嗜好についての語りであるかのような調べに乗せて、さりげなく差し出された前段の語り。それを受けて、そっと、添えられた結句が、こともあろうに、「供えます」である、ということの衝撃。必要な手掛かりが、極めて適切なかたちで読者の元へと差し出されているところにハッとさせられます。母君に対する呼称を「お袋」としておられるところも、なかなかのお味であると言えましょう。作者の紡がれた大切な一刻。それが湛えくる物語を、確と拝させていただきました。

佳作忘れもの忘れたことも忘れもの中野 敬子さん(調布支部)

佳作雨空に持っていけよと母が傘八代 節子さん(調布支部)

佳作汚染水 預かってくれ 官邸で相川 隆司さん(調布支部)

佳作やさしさを受け止められず そっぽ向く石川 小夜子さん(調布支部)

佳作ふり返える 元にもどらぬ人生は濱田 晴恵さん(荒川支部)

補欠霜柱浮き立つ波の冬模様内山 貴美子さん(西多摩支部)

補欠傘の下 そろそろ俺も一人だち永井 康博さん(調布支部)

総評

 それぞれの方々が、それぞれのお心の現在地を、川柳という詩型の裡に《書きとめよう》、として下さっていることを、嬉しく、ありがたく思います。種々の《できごと》や、そこから受け取った《思い》を、傍観の位置からではなく、《わがこと》として見つめ、捉える――。川柳を書く上での基点とも言うべき、この立ち位置を、しっかりと携えていて下さるお作品に、今回も出会わせていただけたこと、幸せでした。

 さて、それでは、恒例となりました佳作の方々へのメッセージと参りましょう。
 一句目の敬子さん、「忘れる」という動詞を基点とした語を三度繰り返すことのみによって一句を描き上げるという叙法のおもしろが光りました。上五と下五の両方に配された「忘れもの」という措辞の間に、中七として「忘れたことも」という語を置くことによって、「忘れもの」を「忘れる」、とも解せる配合が示され、その上で果たされる、「忘れもの」を「忘れること」自体も「忘れもの」なのである、という措定。仕掛け自体の巧みさが新鮮で、頼もしい限りでした。
 二句目の節子さん、まさに「母心」とでも言うべき思いが、ここには確と刻まれています。それを託す具象として、「雨空」という舞台を設えた上で、母なるそのひとに発させた、「持っていけよ」というひとこと。その、さりげない、たったひとことが湛えている重みに気づき、それを噛みしめる《ここに描かれたひと》の、その姿が見えてくるところに惹かれます。この母の子として、私はいる、ここに、こうして、生かされている――。そのひとのその心が、胸中に宿る思いが、じんと沁みくる造形でした。
 三句目の隆司さん、おお、まさに、その通り、と、大きく頷きたくなります。「預かってくれ」という願いの目的語として配される語が、こともあろうに「汚染水」であるところが、何と言っても手柄であると言えましょう。しかも、その「預かってくれ」を突きつける相手は、「官邸」であって、他の何者でもないのです。この記述によって、書き手の訴求しようとする事柄が極めて鮮明なかたちで、一句の中に立ち上がりくることとなりました。「預かってくれ」と依頼するからには、きっと、プラスイメージの下に語られる何物かであろう、と推測する意識、即ち、常識発想を見事に覆しておられるところが逞しい限りです。
 四句目の小夜子さん、「やさしさ」を差し出されてある《そのひと》の状況を、「そっぽ向く」という措辞に託して語っておられるところが手柄で、そこから、ちょっぴり切ない物語がこぼれ来ました。ここに描かれたそのひとは、わかっておられるのです。自分に向けて差し出されたそれは、間違いなく「やさしさ」である、と――。にもかかわらず。「やさしさ」を「やさしさ」として受け止めることができない、というその心の現在地。それが、何ゆえのものであるのか、記された物語が静かにふくらんでゆくところが魅力でした。
 五句目の晴恵さん、まったくもって、おっしゃる通りです。だからこその「人生」、だからこその「生きる」なのですよね。それを語るに、思いを託す具象として「ふり返る」という所作を据えて臨んでおられるところが説得的でした。

 そしてまたという時空間の中で、私たちは、何を見、何を感じ、何を受けとめて、《今》という刻下の瞬間を重ね続けているのでしょうか。《今》の私は《今》にしか書けません。そして、今の《私》は《私》にしか書けません。《私》が書く《今》が、《今》が気づかせてくれる《私》が、川柳の、そして《書く》ということの本義なのです。
 今年も、たくさんのお作品を、ありがとうございました。みなさんの大切な《今》を、かけがえのない《私》を、どうか、見逃さないでやって下さいと希います。心から。

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