第37回 仲間の作品コンクール 川柳の部

<高鶴 礼子 選>

金賞手のひらに生きていますという涙石川 芳也さん(調布支部)

 「手のひら」の「涙」という着眼はよく見かける発想です。けれど、この句は、そうした《あるある感》的な予定調和に留まってはいません。それどころか、しんと深い、《生きる》のかたちとも言うべき物語を湛えていてくれていることにお気づきいただけるでしょうか。なぜ、それが果たされているかと言えば、それは、この句の中に《私は、このことを、こう観る》という、作者自身の視座が存在しているからに他なりません。ぽつんと「手のひら」にこぼれた「涙」のそのひとしずく。それを、ここに描かれたひとは、ああ、この「涙」は「生きています」と言っている……、「生きています」と言ってくれているのだ、と捉えているのです――。その心象が伝えくるのは、とてつもない《独り》の裡に在りながらも、けれど、それでも、と、ご自身の《生》を見つめる、ひとりのひとの姿であり、そのひとが対峙している心の現在地そのものと言えましょう。セツメイでない造形という、《書く》ということの基点が、しっかりと担保されている表出。抒情の裡に息づく《にんげん》の姿に、たまらなく惹かれます。

銀賞後10日 産衣干す娘が母になる髙橋 久美子さん(村山大和支部)

 自然体での語り口が、《母になろうとしている娘》を見守る親の心象を、余すところなく刻んでくれています。「後10日」という具象を書き入れたことによって、その語りに大いなるアクチュアリティーが宿ることとなりました。生まれくる赤ちゃんのための「産衣」を洗ってはお日様に干す「娘」なるひとの手や、やわらかな横顔が目に見えるようです。待ち望まれて生まれくる赤ちゃんのしあわせ、それを迎えられる「娘」なるひとのしあわせ、その両方を、じっと、噛みしめては、ああ、あんなにちいさかったあの子が、今、こうして母になろうとしている、と、我が子を見つめる親の心。「感無量」という語は、おそらくはこうした時に使う言葉であろうと、胸がいっぱいになってしまいます。刻まれてゆく《いのち》という伝播。状況のみを描く、という手法によって語られる、ひとつのかけがえのない思い、そのあたたかさと尊さに、じんと打たれました。

銅賞ため息よ なやみと共に散るがいい石川 小夜子さん(調布支部)

 堪えようとしても漏らしてしまう「ため息」。それを、ついつい、漏らしてしまう、という状況。ここに描かれたひとが抱えておられるのは、おそらくは、そうした状況です。それを、単なる嘆息で済ましてしまうことなく、こうした角度から斬り込んだことによって、味わいある一句となりました。眼目は、自身が吐する「ため息」に対して、ああ、私の「ため息よ」、お前は、この私が抱える「なやみと共に散るがいい」と語りかける叙法を採っておられるところでしょう。加えて、その「ため息」の末期を枯葉等の植物に擬し、「散る」という動詞に託して語られたところも、なかなかです。そっと差し出された、ちいさな祈り。その謂いが際立たせる、ここに描かれたひとの心象に潜む切ないどうしようもなさ。どうか、その願いが叶いますように、と、思わず祈りたくなってしまうような儚さと懸命さが、声高でない語りによって、いっそう、沁みるものとなっているところに嬉しく注目させていただきました。

佳作一日の汚れに見合う諭吉たち佐野 龍一さん(調布支部)

佳作点々と歩んだ道を絞り出す濱田 晴恵さん(荒川支部)

佳作順番に扉を開けてあちらまで山田 キミ子さん(調布支部)

佳作木枯らしに吊り干し柿は熟したり石島 弘さん(小平東村山支部)

佳作親方も家に帰れば手元工上水流 郁也さん(江戸川支部)

補欠年重ね故郷遠く墓じまい滝沢 清子さん(足立支部)

総評

 前回の「総評」で申し上げた、句を書く、ということは《私》の《今》を書く、ということである、という理念を、ご自身の《書く》の立ち位置として下さっている方々が、少しずつ、増えてきて下さっているようで、たまらない嬉しさとありがたさを感じます。この調子で、どうか、これからも、みなさんの中の《私》を川柳という詩型に刻んでいってやって下さい。それは、いつか、きっと、私はこう生きた、という深くてあたたかい刻印を今生という世界に差し出してくれるものとなります。

 さて、それでは、恒例となりました佳作の方々へのメッセージと参りましょう。
 一句目の龍一さん、これは決して机の上の拵え事などではない、と思える造形が醸し出す真摯さに打たれます。「一日の汚れ」という措辞は、自身の体を張って向き合う稼業を持つ大変さ、その余人を以て代えがたい尊さを示して余りあるものであると言えましょう。その成果として担保されることとなる「諭吉さん」。それは果たして、「見合う」ものとして、ご自身を賭されたそのひとの前に差し出されてあるのでしょうか。淡々とした叙述が底流させている問題提起が、しみじみと光る一句でした。
 二句目の晴恵さん、「点々と歩んだ道」を「思い出す」ではなく、「絞り出す」とされたところが手柄です。それによって、句中に物語があふれ出ることとなりました。「絞り出す」という結語から、ぐいと眼前に突き付けられるのは、ここに描かれたそのひとの《これまで》という《生きるのかたち》。ぎゅうっと力を籠めないと果たせない「絞り出す」という描写が確と伝えくる、その残量が残り少なくなってしまっているという現況の様相にもご注目下さい。ここに描かれた「絞り出す」が、それを踏まえての「絞り出す」であることによって、読者に差し出されるのは、ここに描かれたひとが築いてこられた一すじの「道」。その大切さ、尊さです。それが「点々と」という副詞とともに記されることによって、上質の余情が宿ることとなりました。切り取りの秀逸さに惹かれます。
 三句目のキミ子さん、結句の「あちらまで」という措辞が抜群です。ごくごく、ふつうの日常の中の一コマであるかのように読める上・中の語り。その直後に置かれた、このフレーズによって、構築されるのは、それが、まるで、「あちらの世」であるかのような、不思議な質感に満ちた詩空間です。それによって、上五の「順番に」という語が、違う方向へと、更なるふくらみを見せることに、お気づきいただけるでしょうか。展開のさせ方の秀逸な、まさに「下五で跳ねる」を体現して下さっている御句でした。
 四句目の弘さん、「吊」られている「干し柿」は、柿の本意からすれば、おそらくは絶体絶命の窮地にあるそれであるとも言えましょう。しかも、ここに描かれた「柿」は、なんと「木枯らし」の中に居るというのです。ますますの逆境下に置かれて、それでも、この「柿」は「熟したり」の「柿」であると、きっぱりと言い切っておられるところに惹かれます。ここにおける「柿」は、「柿」であって「柿」にあらず。逆境に置かれ続けて、それでも、なお、「柿」たることを嘆かず、見失わず、「柿」たることを堅持したまま、大空の下、「柿」として生きる――。そんな生き方を貫くひとの、生き切った末期のような感が明色の語りの裡に記されているように思えて、ああ、という感慨が胸を突き来るような感動をいただきました。
 五句目の郁也さん、各種専門の職人さんの補助やお手伝いをして、職人さんが作業に集中できる環境を整える作業者を意味する「手元工」という言葉を使っておられるところに妙味があります。ここにおける「手元工」は「手元工」であって、「手元工」に非ず、言葉が字義に留まらず、レトリックとして働くものとなっているところが眼目です。現場では「親方」として差配する側に立ち、バリバリ行動する《そのひと》が、「家に帰」ると、なんと、「手元工」(=補助者、即ち、仕切られる側のひと)になってしまう――。仕切る側に立たれるのは奥様でしょうか(笑)。ヤレヤレという苦笑いとともに浮かびくる景の底に、それを受容しておられる「親方」なる《そのひと》の、お気持ちのあたたかさが沁みてくるところが魅力でした。

 みなさんお一人お一人の中の、かけがえのない《今》《ここ》《私》。川柳は、いつでも、そして、いつまでも、それを待っていてくれています。刻んでいってやってください。川柳に、それを。それは時空間を超えて《ひと》と《ひと》が繋がる便(よすが)とも成り得るものです。

メニュー

検索