高鶴 礼子 選(佳作入選者は順不同)
*応募は、15支部、97句

選評 高鶴 礼子

■金賞
まだ残る煩悩数え日向ぼこ  中村 久枝 (世田谷支部)

【 評 】
 「煩悩」を描いてなお、明色で悠々とした句調に惹かれます。「残る煩悩」に添えられた「まだ」の二音も効果的。捨てようとしたのだけれど、やっぱりまだダメだったわと微笑んで、今生の陽だまりに居る作者が見えるようです。でも、煩悩を断ち切れないでいるということこそが生きているということなのですよね。どうか、まだまだ煩悩とは仲良しこよしのままで、かくも愛しきこの世のなんだかんだに、末永く、つき合ってやってください。

■銀賞
お江戸では五輪(まつり)が先で児も生めず  伊藤 正子 (港支部)

【 評 】
 まったく。選択肢の優先順位をしっかと舵取りすることは為政者の大切な役割だと思うのですが、ちょっと待った、と言いたくなるようなことによくぶつかる昨今です。揚句、とうとう取り返しのつかない事態を招くこととなってしまった新生児医療の現場にある構造的な問題をオリンピック誘致の熱心さと対照させて書いたことによってインパクトが出ました。

■銅賞
幕末に似てる時世は夜明け前  岩波 邦治 (狛江支部)

【 評 】
 世相の闇の濃さも人身錯乱のやりきれなさも、すべては「夜明け前」であるからだと。ほんとうにそう信じたいものです。弱い人たちの方に失政のツケが優先的に回っていくような社会は、誰がどう考えてもおかしなものですよね。そうした社会のあり方を憂う時、龍馬よ出でよ、と、他者の中にその出現を期待するのではなく、私たちのそれぞれがそれぞれの場所でそれぞれに合った方法で龍馬になることが求められているように思います。弘さんのこの句は、課題ずくめの現状を前向きに捉えた視点が魅力でした。

佳作


買い物に買えないメモを持って行き  岩波 邦治 (狛江支部)
君は右俺は左で一致する  濱田 和男(荒川支部)
これからは自分の言葉で生きてゆく  須藤 ふみ子 (目黒支部)
泥船に自分が乗って長旅に  原嶋 保(西多摩支部)
仕事なく身体(からだ)休みて胃休まず  神田 春之(足立支部)
【総評】
 ご応募総数九十七句、今回も時事に材を採った作品がその殆どを占めました。社会詠は川柳のもつ大切な横顔。ですから社会詠を書いてくださる方が多いことは嬉しいことなのですが、残念ながら今回もまた、新聞やテレビの後追いで終わってしまっている作品が数多く見られました。社会詠とはいったい何でしょう。
 それは今を生きているあなたが、世界をどのように捉えているか、そこから何をどうしていきたいと思っているのか、ということについての意思の表明です。それは、現在起こっていることはかくかくしかじかである、というだけの表示に留まるべきものではありません。あなたを取り巻く《今》に対して、あなたはどう考えるか、そしてこの先、この世界をあなたはどうしていきたいのか、というところが実は一番肝要なのです。新聞やテレビですでに報道されていることを同じ視点で再報告するだけでは「そうですね」で終わってしまいます。権力の側をただ論(あげつら)うだけでは単なるワルクチと同じです。そうした作品は人様の心の深いところを打つ社会詠(=この社会をよりよく変えていく力となり得る、可能性を秘めた社会詠)とはなりません。

 銭にさえなれば人にはならずとも  井上 剣花坊

 井上剣花坊がこの句を書いたのは大正時代の終わりごろでした。けれど、この句は近年に頻発した食品の産地偽装や耐震基準偽装の問題の本質をも見事に衝いています。外国産を国産と偽るのはけしからん、とか、製造日の日付けをごまかしてお餅を再利用するとは何ごとか、とかいった具合に、さまざまに引き起こされる事件の表面だけをなぞるのではなく、そうした事象の底にある本質を衝いているからこそ、平成二十一年にいる私たちから見ても、品格高く、立派に社会に物申す一句として心に響くものとなるのです。時事詠・社会詠を書こうとされる時は、どうか、上っ面ではなく、剣花坊がしたように、その問題の本質的な部分まで掘り下げ、考え、怒り、して書いていただけたらと思います。

 佳作の五氏については、邦治さんの常識発想の逆を行った指摘、和男さんの目のつけどころ、ふみ子さんの力強さ(中八が惜しい!)、保さんの奥行きのあるドラマ、春之さんの飄々とした感が、それぞれに印象的でした。
 なお、誤字にはくれぐれもご注意を。誤字ゆえにせっかくのいい句を採れないのはとても残念なことです。