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第31回 仲間の作品コンクール 結果発表!

川柳の部

<高鶴 礼子 選>

銅賞 銀賞 金賞
右にしか進まないのよ暴走車 亡き父母の歳をいつしか越えている 焼酎で頓服飲んでいる阿呆

 
羊絵の凧が空舞う平和な陽 願ってるだけじゃ平和は書いた餅 おみくじで今年の運を使いきる 戦争はしない国だよ日本 あなた方住んでみなさい被災地に

金賞

焼酎で頓服飲んでいる阿呆 黒田 順(東村山支部)

選評

 おお、まったくもって、その通りであるといえましょう。が、この句には、どうしようもなく不摂生なる輩を嘆く、という字義通りの意味を超えて、背後にふくらんでいくものが感じられます。それは「阿呆」と、ズバリ言い切った結語の働きから来るものです。ここではまず、この「阿呆」が誰に向けて放たれた言葉なのかを考えてみることにいたしましょう。
 「阿呆」を自分に向けての呟きであると採れば、滲み出てくるのは、やれやれ、ホント、いつまでたってもバカだよなあ、俺は、という自嘲めいた諦念です。大切な誰かさんに向けた囁きであると採れば、通常は蔑称であるはずの「阿呆」という言葉が単なる蔑称ではなくなり、しかも原語義が蔑称であるがゆえに、託された思いの深さが、より沁みてくる言挙げとなります。また、あれだけの放射能による汚染を引き起こしておきながら、放射能をザルで漉すがごとき措置(不適切であるという意味において、焼酎で頓服を飲もうとする行為と同等)のみで事足れりとし、原発再稼働を進めようと画策する(これまた同上)、どこぞの国の為政者に向かって発された言葉であると解すれば、「冗談じゃないぜ」と義憤に燃える社会詠の面構えとなるでしょう。
 言葉が字義のみに留まらず、レトリックとして働き出すと、「焼酎」は「焼酎」であって「焼酎」にあらず、「飲む」は「飲む」であって「飲む」にあらず、ともいうべき複合作用が句の中に生じます。そんなふうにしてふくらんでゆく幾つもの物語が、この句の眼目でした。

銀賞

亡き父母の歳をいつしか越えている 島崎 とも子(西東京支部)

選評

 ふと、訪れた気づきの一瞬。それを逃すことなく捉えた表出が魅力です。欲を言えば、「亡き」は不要ですが(「ちちははの歳をいつしか越えている」で充分、伝わります)、気張らず、気取らずの自然な句体によって、この句はその実感がよりよく伝わるものとなっていることがおわかりいただけるかと思います。自分より年上であるのがあたりまえであった父そして母。それが、いつのまにやら逆転してしまっていることに気づいた瞬間、人はどんなことを思うのでしょうか。父そして母が見続けてきた時間を超えて、生きている自分がここにいる――。そのことの不思議さ、そしてありがたさ。そうした心の像を、「越えている」という状態描写のみに徹して語ったところが手柄でした。

銅賞

右にしか進まないのよ暴走車 石川 英隆(狛江支部)

選評

 「暴走車」に託して語られる国家の右傾化。切れ味のいい比喩がもたらすアイロニカルなテイストが秀逸です。加えて、「進まないのよ」という中七の語尾にもご注目を。この口語句調が、こうした場合に陥りがちなシュプレヒコール的固さからこの句を救い上げ、昇華度の高い一句と成しました。「右にしか」とした「しか」による《限定》もよく効いて、焦点の定まった作品となっています。

佳作

あなた方住んでみなさい被災地に 相川 隆司(調布支部)
戦争はしない国だよ日本は 武田 郁恵(村山大和支部)
おみくじで今年の運を使いきる 井上 裕行(調布支部)
願ってるだけじゃ平和は書いた餅 中村 久枝(世田谷支部)
羊絵の凧が空舞う平和な陽 阿部 房江(杉並支部)

総評

 現状に対するとてつもない危機感からか、今回も、社会に対して物申す作品が多く寄せられました。みなさんのその思いには私も大きく共感いたします。ただ、前にも書かせていただきましたように、社会に対して、その在り様を問おうとする時には決して忘れてはならない立ち位置というものがあります。憤りを書く時には心底、怒らねばなりません。哀しみを書く時には《私》の底の底の底を凝視しなければなりません。何が問題の本質であるのか、何が怒りや哀しみを人に強いたり、憤りを感じさせたりするのか、何が自分にこれを書きたいと思わせるのか。どうか、しつこいほどに自問をなさってみてください。単に「戦争反対」と書いただけで、自分の感じているこの憤りは表わせるのか、言語道断であると思う相手を揶揄しただけで変革への足掛かりとなるほど、事態は軽々しいものなのか、と。
 おそらくは、決してそうではないはずです。
 あたりいちめんに起こっているできごとは、実は、すべからく《わがこと》なのです。わがことであるがゆえに、自分にも責任がある――、傍観者の位置にはいないぞ、と覚悟する、その認識があって初めて、報道の後追いに留まらない発信が可能となるのだと私は考えます。
 言葉が、標語やスローガンから脱して川柳になるのは、そうした瞬間であるといえましょう。かけがえのないみなさんによる、かけがえのない発信。標語やスローガンの次元に留めず、川柳の言葉へと結実させていただけたら、と切に願う次第です。

 それでは、佳作の方々へのひとことメッセージへと参りましょう。
 一句目の隆司さん、対象を明確にした呼びかけが印象的。何と言っても、句自体に強力な訴求力のあるところが魅力です。二句目の郁恵さん、他の何はし得ても戦争だけは、という含意をもたらす助詞「は」の使い方が効いています。加えて、「戦争はしない国」であるという「国」に対する措定すなわち意味づけが抜群でした。三句目の裕行さん、おみくじで出た大吉を、おお、よかったなあ、と言うだけなら、あたりまえですが、そうした常識発想から半歩出て、ゲゲッ、これで俺の今年の運は終りかもぉ……、と発想したところに柳味とセンスを感じます。四句目の久枝さん、そうですとも、行動あるのみ、なんですよね。「書いた」は「描いた」の方がよかったと思いますが、口語体のもたらすスピード感が絶妙でした。五句目の房江さん、平和な「日」ではなくて「陽」としたことによって、具象が上手く立ち上がりました。キラキラとした陽ざしの中の凧。そしてそれを見上げる人々。ああ、これぞ平和ってことなんだなあという房江さんの思いに、しみじみと共感します。いつまでも、そう思えるようにしていたいですよね。

 ここにいる《私》を記していけるということが川柳を書く醍醐味です。今日の私は今日にしか、いません。どうか、その《私》が見つけたものを、言葉にしようと苦しむことを楽しんでみてください。川柳を《書く》ということはそこからはじまります。

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