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第35回 仲間の作品コンクール 結果発表!
川柳の部
<高鶴 礼子 選>
金賞
羽もない飛ぶに飛べない風評たち 小野寺盛雄さん(調布支部)
選評
「風評」という語に「たち」をつけることによって果たされた複数化と擬人化が秀逸です。この操作によって、「風評」というこの言葉が、字義に留まらない(=修辞として読める)語となっていることにお気づきいただけるでしょうか。「風評なるものは、好き勝手に、方々へと飛び交うものである」という、私たちが持つ共通認識を踏まえた上で、そっと示される《飛びたくても飛び立てない風評たち》の存在。擬人法の威力によって、それが、《「風評」のように、信用に値しないという先入観を以て遇される、まともに相手にされることのない、取るに足りない、ちっぽけな存在物/者》としても読める造形となっているところが魅力です。この、「風評」という、「単なる噂」というよりは、「あまりよろしくない噂」というネガティブ・イメージを裡に含む言葉をメイン・モチーフとしたことによって、《否定的に、あるいは、存在価値の低いものとして捉えられることの多いモノやコトの在り様》が照射され、極めて新鮮な視座が一句の中に示されることとなりました。それを捉え得た作者の《まなざし》の、非凡さとやさしさに拍手を送ります。
銀賞
デモ参加八十路の足は未だ確か 石島 弘さん(小平・東村山支部)
選評
おお、と、思わず、両手を握りしめて、うんうんと頷きたくなってしまいます。何気ない呟きのかたちに記された言葉たちから沁みでてくるのは、等身大の《ほんとう》。それによって描き出されるのは、まっすぐに顔を上げて前を向いておられるひとりの《にんげん》の、押しも押されもせぬ立ち姿です。とうとう、八十路まで来てしまったなあ、俺は。けれど、この足は、この足だけは「未だ確か」、まだまだ、行けるゾ、と――。結句冒頭にさりげなく置かれた「未だ」という副詞。それが指し示す《歳月》という、とてつもない重みに、描出された《そのひと》の《生のかたち》が浮き彫りにされています。生きるということを黙々と刻んでこられた《そのひと》。生き方の、その確かさを思います。
銅賞
久々に皆んな頑張る雨上り 山浦 保さん(西多摩支部)
選評
何を衒うことも力むこともない普段着の言葉で綴られた一つの情景の、なんと、爽やかなことでしょう。長雨の後の、晴れ上がった空の下、空の青と澄んだ光を全身に吸い込んで、さあ、やるぞぉぉ~、と道具を手にするひとの、真摯な心の高揚が、じんと伝わってきます。「頑張る」というそのことが、自分ひとりにではなく、「皆んな」に属することである、としたところが、この句の眼目であり、良さであると言えましょう。ひとつのことに、みんなで立ち向かえるということの、とてつもない豊饒さ、あたたかさ。それを見抜けるまなざしの素直さ、そして懐深さ。「久々に」という副詞がもたらす可愛げとおかしみが上質のスパイスとなっているところも、見逃されてはならない美点です。気張らない語りが湛えくるものに、ほこほこと打たれて、嬉しくなってしまいました。
佳作
猫の手もいらない不況年の暮 西村君子さん(調布支部)
今日はダメでも明日ならできるはず 下田佳美さん(足立支部綾瀬17群)
武器を買うこれ以上ない無駄遣い 山本 晃さん(調布支部)
この人は何を語るかたまに来て 濱田晴恵さん(荒川支部)
怪我をして心配される有難さ 下田 昇さん(足立支部綾瀬分会)
総評
一日一日を過ごす中で訪れる様々なできごと、それを川柳に記そう、と、今回もまた、こうして大勢のみなさんがペンを取ってくださいましたことを嬉しく、ありがたく思います。
目の前に差し出されくるできごと、そのひとつひとつを、《私》というフィルターに掛けて判読し、言語化する――、川柳を書くということは、そうした試みの積み重ねであると言っていいのかもしれません。一瞬との出会いの中で、何が自分の中へとこぼれ落ちてくるのか、こないのか。そうして、たとえ、どんなに微かであったとしても、キラリと光る何かがこぼれ落ちてきたと感じることのできる瞬間があったとしたら、その何かとの出会いを見逃さずに、他の誰のものでもない《私》の言葉で、《私》の《いま》、《ここ》を、ひとつずつ、丹念に刻んでいっていただければと願います。
さて、それでは、恒例となりました佳作の方々へのメッセージと参りましょう。
一句目の君子さん、「猫の手も借りたい」という多忙を表わす成句を逆手に取って「猫の手もいらない不況」と表現されたところに《おもしろ》が生まれました。如何ともしがたい憤りの描出。こんなでいいのか、なんとかならないのか、と、唇を噛む《そのひと》が見えてくるようです。
二句目の佳美さん、そうですとも、そうでなくっちゃ、と頷きたくなります。この句は、「今日はダメでも明日ならできるはず」と、一本調子に続けて読まれてしまうと、単なる「散文」で終わってしまいますが、「今日はダメ」、「でも明日ならできるはず」と、「ダメ」のあとに一拍、間を置いて読んでもらえると、「でも」が逆接の接続詞として働き得ることによるトビキリの切迫感が立ち上がり、インパクトが出る、という、興味深い二面性を持ったお作です。ここでは、後者の解を採って佳作にいただきましたが、前者のように読まれてしまうともったいないですので、「今日はダメ」の後に、一字空けを入れて、「今日はダメ でも明日ならできるはず」というかたちで表記なさることをお勧めしたいと思います。一字空けは、句中に空白の一マスを挿入する、という技法で、①読者に、どうしてもここで一拍置いて読んでもらいたいと思う場合や②誤読を避けたい場合に使います。一字空けを否定的に捉える指導者の方もおられますが、技法である以上、使う、使わないは作者の専権事項であるというのが私の考え。大切なお作品を、どのようなかたちで旅立たせるのがいいのか、それをじっくりと見極められた上で、ぜひ、有効活用なさってみてください。掲句は、率直な詠みっぷりの背後に息づくエネルギーと、キッパリ言い切った爽やかさが魅力でした。
三句目の晃さん、まったくもって、その通りです。そんなものにお金を費やすことを止めさえすれば、消費税の増税など不要のはずですし、災害被害者の方々への支援は言うに及ばず、子育て支援、高齢者支援等々、ほんとうに必要な方々のところへの必要な支援に国家予算を振り分けられるはずですよね。日中戦争が始まる時代に「手と足をもいだ丸太にしてかへし」といった川柳を書き続けたがために、治安維持法違反で捕らえられ、命を落とすこととなった川柳作家・鶴彬。彼を二度殺さないために――、私たちを取り巻く刻下の状況に敏感であり続けることはとても大事なことだと考えます。これを書こう、書かないでおくものか、とペンを取って、この句を書いてくださった時のお気持ちを、どうか、ずっと、ずっと、持ち続けていらしてください。
四句目の晴恵さん、ふと洩らされた呟きのような語りの中に、ズトンと重い問題提起が置かれているところに惹かれます。問題となっている状況とガップリ四つに組み、酸いも甘いも難儀も喜びも、すべて芯まで味わい尽くした上で宣うなら、まだしも、「たまに」しか「来て」いないのに、「この人」は、いったい何を言うのか、言おうとするのか、と――。「この人」なる御仁への《モノ申す》的状況が、特称すなわち個別的な景としても、傍観者一般を指弾する全称的状況であるとも読めるところが、何と言っても大きな手柄です。後者に読むと、どこぞの国の首相が自国へのオリンピック誘致のために宣うた、かの震災に対する無責任な一言やら、まるで《ついで》やアリバイ作りの如き、関係閣僚の被災地訪問の景などが蘇りますよね。切り取った状況が指摘する命題が、こうして時と場所を超えて周延するのは、作者がきちんと、事象の背後にある本質を捉えていらっしゃるからです。優れた眼力による、粋なお味の一句を嬉しく拝読させていただきました。
五句目の昇さん、そうなのですよね、「怪我」をしてしまった、という、《状況からの否応なき離脱を余儀なくさせる事態に置かれた自分》を、糾弾するのではなく、心配してくれる仲間たちがいてくれるということ、それはほんとうにありがたいことです。と同時に、それを、ありがたいと思えるのは、そうした思いに遭遇したひとの中に、ひととしての豊かさがあってこそのことなのだと感じ入りました。自然体の造形の裡に、しずかに底流する品の良いあたたかさ。作者のお人柄を思います。
今日の《あなた》は明日になると、もう、いなくなってしまいます。今、枝から落とされようとしている蕾を記せるのは、蕾の前にいる《あなた》しかいません。
《書く》ということを、どうか、《あなた》の人生の伴走者にしてやってください。そうしてこぼれくる《あなた》との邂逅を、私はいつまでもお待ちしていたいと思います。